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野口雨情記念館
(北茨城市歴史民俗資料館)
野口雨情記念館
 ここには、詩人野口雨情に関する資料などが展示してあります。 近くには野口雨情生家、二つ島、天妃山など散策するコースも豊富にあります。
休館日
月曜日(休日の時は、その翌日)
年末年始(12月29日〜1月1日)
開館時間
9:00〜16:30
入館料
一般 300円  学生 100円
電話  0293−43−4160

施 設 の 案 内

    
 
野口雨情生家 
野口雨情生家

 北茨城に生まれ、明治・大正・昭和の三時代にわたり、詩・童謡・新民謡の分野に 大きな業績を残した野口雨情は、北原白秋・西条八十とともに三大童謡・民謡詩人の一人と呼称されました。
 なかでも雨情の作品は、庶民的で郷土色豊かな味わいをもつことから多くの人々の心に深い愛着を抱かせました。
 野口雨情コーナー
 ここでは、雨情の偉業を顕彰し、後世に伝えるため、全国から収集された資料を中心に展示しています。
 「雨情略年譜」、「雨情作品抄」、「雨情詩碑一覧」などにより、雨情の生涯がわかり易く解説されています。 さらに、陳列ケースには原稿、直筆の色紙・掛軸、小川芋銭や石川啄木との交友を示した 書簡、著作品、「金の船」をはじめとする雑誌類、楽譜、遺品等を展示しています。
    
記念館付近の地図 
記念館付近の地図

五浦の日本美術院等コーナー
 ここでは、日本美術院の五浦時代が、日本近代美術史上に残る数々の名作を生んだ重要な時期であったことから、 当市出身の飛田周山作の絵画、岡倉天心や横山大観の写真等、五浦の日本美術院にかかわる資料などを展示しています。
 さらに、一階展示室入口には、「雨情の里きたいばらき」と題して、レーザー・ディスクが設置され、「野口雨情-郷愁-」、 「北茨城の観光」、「北茨城の産業」「五浦の日本美術院」の四編が録画されており、 白由に視聴することができるようになっています。

野口雨情の生い立ち

 
二つ島 
二つ島
 野口雨情は、明治15年(1882)5月29日茨城賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として 生まれ、英吉と名付けられました。
 生家は、かつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」と呼称され、「磯原御殿」とも言われた名家で、 家業は廻船業を営み、父は村長を二期勤めた人望家でもありました。
 明治30年(1897)伯父の衆議院議員野口勝一(北巌)宅に寄宿し、東京数学院中学、順天中学を径て、同34年4月、 東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)に入学しますが、一年余で中退しています。
 少年時代から文学的素養に富み、回覧雑誌への掲載のために民謡風の詩作をしていたと一言われています。

詩壇登場と流泊のころ

 
 野口雨情歌碑
野口雨情歌碑
 雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしでした。明治35年(1902)3月、文芸雑誌 「小柴舟」によって詩壇に登場しますが著名の域までにはいたりませんでした。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。同38年3月、 処女詩集「枯草」を自費出版したものの中央詩壇までは響きませんでした。
 同39年樺太に渡ったものの事業は失敗、帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけでした。 その後、早稲田詩杜の結成に参加し、やがて北海道に新聞記者として渡り二年余漂泊しました。 この間、石川啄木との交友、雑誌への投稿は続きましたが詩壇への復帰はなりませんでした。  明治45年中央から離れて帰郷し詩作活動を続けました。

詩壇一復帰、童謡・民謡詩人としての活躍

 
童謡からくり時計 
童謡からくり時計
 大正4年(1915)妻ひろと離婚の後、現いわき市常磐湯本町の柏屋に移り、詩作活動を続けます。同7年水戸へ出て 「茨城少年」の編集にあたりながら童謡作品を発表します。秋、中里つると結婚します。
 同8年、西条八十等の紹介もあり中央の児童雑誌に童謡作品の発表を開始します。また唯一の自由詩集「都会と田園」 の刊行により詩壇復帰を果たします。著名な「船頭小唄」一原名 枯れすすき一を作詩し、中山晋平に作曲を 依頼したのもこのころです。同9年上京「金の船」に入杜、杜主の斉藤佐次郎と親交を結び編集を行いながら 作品を継続的に発表します。「蜀黍畑」、「十五夜お月」などはこの年の作品です。
 同10年には、「七つの子」、「赤い靴」、「青い目の人形」などの作品が発表されました。
 同11年から「コドモノクニ」にも作品を発表します。「雨降りお月」、「あの町この町」、「兎のダンス」等は、 この雑誌に掲載されました。
 作曲家の本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の詩作品に最適の曲譜を付けたことも好運でした。雨情はこの 時期ごろから全国各地への童謡・民謡普及のための講演旅行が多くなり、その足跡は国内のみならず当時の台湾・朝鮮・ 満州・蒙古にまで及んでいます。新民謡作品も「須坂小唄」をはじめ、全国各地で数百編にもなります。
 昭和10年(1935)ごろから詩作は減少し、同18年病に倒れます。同19年宇都宮郊外に戦火を避けて疎開します。
 昭和20年(1945)1月27日、永眠、行年63歳。
 雨情はつねに「民衆の間にうたい継がれてきた童謡・民謡を芸術的な水準にまで高揚させ、民衆の中に生きる 芸術として育成したい」という目的意識をもっていたと思われます。